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  • 執筆者の写真Kunihiro Sugiura

プロフィール詳細

更新日:2022年5月1日

というより思い出話しですね。ながったらしいのでお時間のある時にゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。文章ヘタですが、、、


1963(昭和38)年4月26日、清水市(現静岡市清水区)元城町に生まれる。

父・敏夫(1930-2007)は紳士服仕立て販売業 [杉浦洋服店] を営む。クラシック、ジャズ、アメリカン・ポップス、歌謡曲など、音楽なら何でも好きでレコードを買い集めていた。母・昌子(1932-2017)も、祖母・はるゑ(1911-1996)も音楽好きであった。

祖父・新太郎(1903-1957)は東京・銀座米田屋という名店で修行。大臣や上流社会の人物の洋服を請け負うほどの腕を持っていたらしい。自分が生まれた時にはすでに他界していたため、遺影でしか知らない。

父の兄弟も職人として同居しており、妹・純子(1964-)とともにひとつ屋根の下で大所帯の幸せな幼少時代を過ごす。


清水市立入江保育所時代

家族旅行で行った伊豆富士見ランド?で(以下、母から聞いた話で自分は覚えていない)

「偶然チャーリー石黒と東京パンチョスのショーがあったのよ。あんまり演奏が素晴らしいものだから、夢中で聞き入っちゃったのよね。そしたらね、いつのまにか邦弘の姿がないの。あら、どこ行っちゃったのかしらって心配してたらね、なんだか客席の前の方でワイワイ盛り上がってるの。よく見るとステージのすぐ下でね、チャーリー石黒みたいに指揮のマネをしてる邦弘を見つけたのよ。」


(以下、記憶あり)

賑やかな清水銀座通り(現シャッター通り)を母と歩いていると、音楽教室から聞こえてくる音楽にみるみる吸い寄せられていった。母は「よほどこの子は音楽に興味があるのでは?」とカワイ音楽教室オルガン科に入会させる。ト字記号*の書き方を教わった時のことは、鮮明に覚えている。静岡市公会堂での初めての発表会では「河はよんでる」を演奏。音楽劇「アリババと40人の…」盗賊役で化粧をさせられ、ズタ袋をしょわされ、セリフもなく、なんだかわけのわからぬままステージでつっ立っていた。

白髭神社の町内盆踊り大会で太鼓デビュー。

1970(昭和45)年3月卒所。

*ト字記号=先生はト音記号をそう呼んでいた



清水市立入江小学校(現静岡市立清水入江小学校)時代


1年生…学校の音楽発表会でカスタネットを担当。田光先生率いる器楽クラブのお兄さんお姉さん達による「剣の舞(A.ハチャトゥリアン)」の演奏に感動する。初めて見たティンパニ(Nikkan社の白い「たまごティンパニ」)を叩く姿、先生の指揮ぶりが忘れられない。


2年生…音楽発表会の総練習でボーっとしていたら「くにちゃんはカスタネットでしょ!」と言われ、やっと自分が何をするのかを理解した。


3年生…音楽発表会では「小ぎつね」で大太鼓を担当。カワイ音楽教室では足でベースを弾くカッコよさに憧れ、電子オルガン科に転向。誕生日に自宅に電子オルガンが来た!両親からの嬉しい嬉しいプレゼント。クーポール結婚会館での発表会で「ララルー」を演奏。


4年生…カワイ音楽教室発表会で「インドの歌(リムスキー=コルサコフ)」を演奏。(足鍵盤が初めから終わりまでずーーっと「ソ」で楽でした。)


5年生…カワイ音楽教室発表会で「軍隊行進曲(シューベルト)」を演奏。練習不足で止まってしまう。父が話してくれた「最初から最後まで小太鼓がずっと同じリズムを刻む曲がある」に興味を持ち「ボレロ、組曲展覧会の絵、禿山の一夜(レイボヴィッツ=ロイヤルフィル)」のレコードを買ってもらう。


6年生…入江小器楽クラブに入部。「シェリト・リンド」「ヴィヴァルディ四季より“春”1楽章」「オブラディ・オブラダ」などを演奏。(打楽器をやりたかったのに全部電子オルガン)


カワイ音楽教室発表会では「プリーズ・ミスター・ポストマン」を弾く。

父の運転する車の中で8トラックカセットのカラヤン=ベルリンフィル「新世界交響曲」を聞かされ「邦弘、4楽章にな、今までの音楽が全部入ってるんだ」に言いようのない興味を抱く。

1976(昭和51)年3月卒業。



清水市立第八中学校(現静岡市立清水第八中学校)時代


1年生…入学式のアトラクションで田邊洋二先生率いる吹奏楽部が「およげ!たいやきくん」「タイムボカンのテーマ」などを演奏。そのサウンドに圧倒され入部。

初めてのコンクールでは小太鼓を任されるも、ロールができずにトランペットの先輩から毎日「おい杉浦、ロール10分!」「おい杉浦、ロール30分、ぶっ通しやれっ!」「おい杉浦、今日バジングやったか?」と、練習方法もわからないまま過酷なトレーニングを強いられる。

清水銀座商店街の楽器店で「新世界交響曲」のポケットスコア¥450を発見。購入。トランペットの先輩に4楽章のテーマを吹いてもらうが、違和感を覚える。「移調楽器」の存在を知る。

課題曲「即興曲(後藤洋)」自由曲「序奏とカプリス(C.カーター)」で地区大会初出場にして金賞。県大会優秀賞。(当時の静岡県は、東海大会に駒を進めることができる県代表4チームが最優秀賞=今の金賞、その他が優秀賞=銀賞のようなもの、でした。)

部活が多忙になりカワイ音楽教室を退会。


※先輩との会話(本当にあったおはなしです)

先輩「バジングやったか?」

杉「ばじんぐってなんですか?」

先輩「バチを持ってバチバチ叩くのがバジングだ!!!」


2年生…課題曲「吹奏楽のためのドリアン・ラプソディー(桑原洋明)」自由曲「ルウィスバーグ(R.ミッチェル)」で地区大会金賞。県大会優秀賞。

課題曲でドラがたった1発出てきた。が、清水八中にはドラがなかった。「禿山の一夜」「展覧会の絵」を聞いていたので音の雰囲気だけはわかっていた。困っていた先輩に「合わせシンバルを片手に持ってバスドラのバチで縁の近くを叩いてみたらどうですか?」と生意気を言う。ドラに憧れる。


3年生…ハマジが吹奏楽部に入部、ホルンを担当。

課題曲「ジュビラーテ(R.ジェイガー)」自由曲「ジュビラント序曲(A.リード)」でまさかの地区大会銀賞。ショックで帯状疱疹を患う。

清水二中が演奏する「呪文と踊り(J.B.チャンス)」に大きな衝撃。「こんな曲が世界にあるんだ!!!」。以降吹奏楽オリジナル作品の魅力に取り憑かれる。


吹奏楽部の友人2人と東京見物。杉並・普門館、浅草・ジャパンパーカッションセンター初訪問。あまりの感動に田原町「花家」の焼きそばの味が薄く感じられた。


体育祭の学年別クラス対抗リレー(だったかな?)で4人か5人か忘れたが、ゴボウ抜きで優勝に導く。クラスじゅうのヒーローとなる。バトンを渡した時の相手の顔を今でもはっきり覚えている。足は早かったが基本的に運動音痴。球技が超苦手。でもドッヂボールはいつも最後の一人に残っていたので、反射神経だけは良いのかも。


田邊先生や友人の勧めで東海一高吹奏楽部第8回定期演奏会を聞きに行く。メインプログラムの「展覧会の絵(M.ムソルグスキー/ハインズレー)」は父が買ってくれたレコードで聞いていたので、生で聞くそれは凄まじかった。が、「キエフ」のドラの音があまり良く聞こえず、やや不満も。

1979(昭和54)年3月卒業。



東海大学第一高等学校(現東海大学付属静岡翔洋高等学校)入学。恩師榊原達先生と運命の出会い。吹奏楽部に入部し、以降部活漬けの毎日を過ごす。


1年生…楽器運搬・雑用に精を出す。吹奏楽部は5年ぶりの東海大会出場に沸く。ラディックのペダル・ティンパニ<ドレスデン・モデル>26&29インチがお目見えし、グリッサンドで遊びすぎて先輩に怒られる。第9回定期演奏会で「禿山の一夜(M.ムソルグスキー/ハインズレー)」でドラを担当。Paiste社のうっすい30インチほどの、ヒビの入ったドラ。それでも先輩から「杉浦、もっとドラらしい音出せねぇのか、コラっ!!」とゲキを飛ばされる。前年の定期で聞いた「キエフ」の不満に納得。


2年生…KMK40インチのドラを学校が購入。憧れのドラに身震いする。

課題曲「吹奏楽のための花祭り(小山清茂)」自由曲「二つの交響的断章(V.ネリベル)」で地区大会金賞、県大会最優秀賞、東海大会金賞。念願の全国大会出場、銀賞。

ほんの気軽な気持ちで5〜6人編成にアレンジした「まんが日本昔ばなし」主題曲、体育祭用にアレンジした小品が評判となり、第10回定期演奏会で初の吹奏楽アレンジ<アニメ・メドレー(鉄腕アトム〜ドラえもん〜ルパン3世〜宇宙戦艦ヤマト)>。コンデンス・スコアからパート譜を起こしたので意外とまともなサウンドに。

学業成績不振、父の音大進学反対など、精神的に参ってしまい家出。思い出の普門館を訪れる。


3年生…父のお許しをいただき音大受験のため野仲啓之助先生(元新星日本交響楽団→東京フィルハーモニー交響楽団)に小太鼓のレッスンを受ける。

第1回日米親善合同演奏会。ラリー・カーティス指揮カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ウインドシンフォニーの「そしてどこにも山の姿はない」にショックを受ける。

全国高等学校総合文化祭に出演。秋田県までスクールバスでの長旅。大型楽器は現地のレンタルを使用。

故小林美隆先生(元NHK交響楽団)に小太鼓のレッスンを受ける。

吹奏楽コンクールで課題曲「東北民謡によるコラージュ(櫛田てつ之扶)」自由曲「カタストロフィー(保科洋)」 県大会最優秀賞。

東海大会の練習会場に大太鼓のマレットを置き忘れるも、OB・ご父兄の協力で事なきを得る。東海大会金賞・代表獲得。全国大会銀賞。

第11回定期演奏会用に<アニメメドレー'81>をアレンジ。


1982(昭和57)年、充実の浪人生活を送る。。。


1983(昭和58)年4月、晴れて武蔵野音楽大学音楽学部器楽学科打楽器専攻小太鼓専修入学。


1年…コンパ、コンパ、コンパで酒漬けの日比、いや、日々を送る。(わかる人にはわかる)

吹奏楽の授業で「交響曲第2番(J.B.チャンス)」ティンパニを担当。後期実技試験で「オードブル(P.プティ)」を演奏。


2年…入間オケで「カプリチオ・スケルツォーソ(ドヴォルザーク)」のティンパニを担当。アントニン・キューネル先生の音程矯正授業で「ピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)」大太鼓担当の同期は2ヶ月以上出番を待たされる。メインプログラムの「ベト7」は同期の鷺森雅古がTimp.を担当し歴史的名演が話題となる。

グループ・コンサート(略称グルコン)で「プリズム(作曲者失念。安倍圭子先生の曲ではない)」、後期試験で「打楽器協奏曲3楽章(ジョリベ)」。

学生時代のアルバイトは、大日本印刷(1日)、石神井公園駅南口「純喫茶ラボンヌ」(数ヶ月)、ファミリーマート(2ヶ月)、演歌のピアノ弾き(2年)。


3年…Aブラス(武蔵野音楽大学ウインドアンサンブル)メンバーに選抜される。「前奏曲とアレグロ(V.ジャンニーニ)」「カリフォルニア・ジュビリー(R.ニクソン)」「交響的断章(V.ネリベル)」「アレルヤ・ラウダムス・テ(A.リード)」「パシフィック・セレブレーション組曲(R.ニクソン)」「法華経からの三つの啓示(A.リード)」など。グルコンで「打楽器協奏曲1楽章(ジョリベ)」後期試験でソロ曲(曲名覚えてない...)

Bオケ「スペイン奇想曲(リムスキー=コルサコフ)」小太鼓。

武蔵野音大では打楽器アンサンブルの授業はなく、学生が自主的にアンサンブルを組んで学園祭などで披露していたが、4年生の先輩達の熱意と努力が実り練馬文化会館で第1回武蔵野音楽大学打楽器アンサンブルコンサートを開催。「イオニザシオン(E.ヴァーレーズ)」など。

学外でドラムセットの基礎を長谷川清司先生(ダン池田とニューブリード→フリーのスタジオミュージシャン)に師事。スティーヴ・ガッド、エルビン・ジョーンズのセミナーを受講する。


4年…武蔵野音楽大学第3回ヨーロッパ演奏旅行のメンバーに選ばれる。「管弦楽のための木挽歌(小山清茂)」「交響曲第6番“悲愴”(チャイコフスキー)」のティンパニを担当。旅行前の記念演奏会を聞きにいらした小山清茂先生にお褒めの言葉をいただく。

Aブラスでは「エル・カミーノ・レアル(A.リード)」「ルイ・ブルジョアの賛歌による変奏曲(C.T.スミス)」「オーストラリア民謡変奏曲(J.カーナウ)」「二つの交響的断章(V.ネリベル)」「交響曲第2番(J.B.チャンス)」など。卒業試験「打楽器協奏曲1・4楽章(ジョリベ)」

第2回武蔵野音楽大学打楽器アンサンブルコンサート開催。「トッカータ(チャベス)」「ドラムセットと打楽器アンサンブルのための協奏曲(J.ベック)」ほか。


1987(昭和62)年3月大学卒業。4月、フリーの打楽器奏者、ドラムセット奏者として首都圏を中心に活動。コンサート、レコーディング、ライヴ等をこなす。(以下、敬称を省略させていただきます)


ハコバンでダンスホール、ナイトクラブ、キャバレー等を経験。美川憲一、あべ静江、錦野旦、北原ミレイ等の歌伴なども。


1990(平成2)年12月6日、活動拠点を故郷の静岡に移し、演奏活動、作曲・編曲を行なう。


1991(平成3)年、<日本縦断民謡まつり>が国立楽器(のちのウインドギャラリー)より出版。


1992(平成4)年4月13日、普通自動車第一種免許取得。


1997(平成9)年、妻・ます美と結婚。仕事がなく苦しい生活の時にも笑顔を絶やさず献身的に支えてくれています。こんな僕にはもったいないほどの妻です。今の自分があるのはどれもこれもます美ちゃんのおかげです。


1999(平成11)年、天皇皇后両陛下ご臨席による第50回全国植樹祭(天城湯ケ島町)の式典音楽の編曲を担当。

同年、東京・サントリーホールで日本打楽器協会の委嘱による<もっくんの太鼓物語>が岩城宏之の指揮、吉行和子のナレーション、東京佼成ウインドオーケストラにより初演。


2000(平成12)年、佐渡裕、シエナ・ウインド・オーケストラの委嘱で<ウインター・ソング>を編曲。同オーケストラの定期演奏会で初演される。


2001(平成13)年、佐渡裕の音楽夢大陸「ヤング・ピープルズ・コンサート」の編曲を担当。(以降、平成15〜17年、19年、21年の計6回を担当)

同年、琉球交響楽団委嘱による<沖縄民謡メドレー>が大友直人指揮により初演。

同年10月、静岡初のプロオーケストラ「静岡交響楽団」にティンパニ&打楽器奏者として入団。

2002(平成14)年、毎日放送主催「サントリー一万人の第九コンサート」(音楽監督・指揮/佐渡裕)ゲスト・アーティストの編曲を担当。以降、平成27年を除く全ての回を担当。


2003(平成15)年、旧清水市と旧静岡市との合併コンサートで<海と港のメドレー(構成と編曲・指揮/服部克久)>の吹奏楽オーケストレーションを担当。


2004(平成16)年、新日本フィルハーモニー交響楽団の親子コンサートで<もっくんのタイコ物語>完全オリジナル版が小松長生指揮により初演。以降、平成24年まで同コンサートの音楽物語を担当。

同年、JAL「薬師寺音舞台」の編曲を担当。ジョン・健・ヌッツォのテノール・ソロ、特別編成のオーケストラで演奏。毎日放送系列でテレビ放映される。


2005(平成17)年、天皇皇后両陛下ご臨席による阪神淡路大震災10周年追悼式典の<君が代><しあわせ運べるように>を編曲。西宮少年合唱団、神戸市立なぎさ小学校、マリスト国際学校、1・17メモリアル特別編成オーケストラ、佐渡裕の指揮により演奏。

同年、ピアノ・トリオ「Bee」(Pf.及川浩治、Vn.石田泰尚、Vc.石川祐支)のために<リベル・タンゴ>など数曲を編曲。

同年、兵庫県立芸術文化センター「ジルベスター・コンサート」の編曲を担当。佐渡裕指揮、 兵庫県立芸術文化センター管弦楽団により演奏される。


2006(平成18)年、静岡で本格的なプロの打楽器アンサンブルグループ「パーカッション アンサンブル 静岡」を創立。平成19年より定期演奏会を開催。

同年大晦日、大阪城ホールでの「江原啓之スピリチュアル・ヴォイス カウントダウンスペシャル」公演の編曲を担当。江原啓之のテノール、大阪センチュリー交響楽団により演奏。


2007(平成19)年、織田浩司指揮、尚美ポップスオーケストラにより<POPPO POPPO“はとぽっぽの世界旅行”>レコーディング。ブレーン株式会社より楽譜と共に出版。のちテレビ朝日系列「題名のない音楽会」で佐渡裕指揮、シエナ・ウインド・オーケストラの演奏で紹介される。


2009(平成21)年、静岡県で行なわれた第24回国民文化祭・しずおか2009のメインテーマ曲<夢奏(ゆめかな)>を吹奏楽用にオーケストレーション。


2011(平成23)年、佐渡裕、シエナ・ウインド・オーケストラの委嘱で<シンフォニックD.P.>を編曲。同オーケストラの定期演奏会で初演される。のちテレビ朝日系列「題名のない音楽会」で紹介される。


2013(平成25)年、JAL「東寺音舞台」の編曲を担当。福原美穂、京都フィルハーモニー室内合奏団により演奏。毎日放送系列でテレビ放映される。


2014(平成26)年1月、静岡交響楽団を退団。フリーの音楽家として活動を始める。


2015(平成27)年、兵庫県立芸術文化センターの委嘱で<一月一日>を編曲。ニック・ケンドール(Solo Vn.)、キース・ロックハート(指揮)、兵庫県立芸術文化センター管弦楽団により「ジルベスター・コンサート」で演奏。


2016(平成28)年より、JOC(日本オリンピック委員会)主催の「オリンピックコンサート」でゲストアーティストの編曲を担当。NHK総合テレビ、NHKBSプレミアムで放送。

同年、富士市50周年を記念し、<吹奏楽のための“竹採幻想”>を作曲。望月洋次郎指揮富士市立高等学校吹奏楽部により11月1日の式典で初演。(富士市文化会館ロゼシアター)


2017(平成29)年より、愛知県立芸術大学 管打楽器コース非常勤講師としてオーケストレーションの講義を担当。


2018(平成30)年より「ディズニー・オン・クラシック」のアレンジとオーケストレーションを担当。

2019(平成31)年、「ブラバン・ディズニー」シリーズの編曲を担当。「シエナ・スタイル」「ハイスクール・スタイル」の2枚がCD化。

同年3月、ロサンゼルスのディズニー社を視察。

同年(令和元年)8月31日、「オリンピックコンサート2019」NHK総合テレビ放映。


2021(令和3年)、<やまがたふぁんたじぃ〜吹奏楽のための〜>が第31回朝日作曲賞受賞。2022年度全日本吹奏楽コンクールIに選出される。

同年4月より、常葉大学短期大学部音楽科非常勤講師として作曲編曲法の授業を担当。


演奏活動、作曲・編曲のほか、中学生・高校生から社会人の打楽器指導、吹奏楽コンクール、アンサンブルコンテストの審査員などを務める。

NHK静岡放送局、SBS(静岡放送)、SUT(テレビ静岡)、エフエム清水など、テレビ・ラジオへの出演経験多数。

趣味:DIY 落語鑑賞 料理

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